盛岡地方の競馬は、明治の初期までは八幡宮境内の馬場で行われていました。
1871年(明治4年)に、当時の県産馬会が、菜園に長さ1000mの楕円形馬場を新設し、競馬熱を大きく盛り上げたといわれています。しかし、馬場ごとの形態が異なり、正規のものではありませんでした。
そこで、県産馬組合連合会が長い月日をかけ、競馬会を創立し、寄付を募って1903年(明治36年)に上田に「近代的な」長さ1000mの競馬場を完成させました。当時の騎兵監、閑院宮載仁親王がおいでになった際に特別競馬会を開催したところ、親王はこの競馬場を「黄金競馬場(こがねけいばじょう)」と命名されました。
この名称は、明治天皇が1876年(明治9年)に東北を御巡幸した際に、お召替所となった場所に清水がわいており、御膳水に使われたことから「黄金水」と呼ばれ、そのゆかりの地の近くに競馬場ができたことから、これにちなんで栄えるよう願いが込められ、名づけられました。
この当時の競馬は、四歳馬、未勝利馬、新馬、古馬などの区分に特別競走を組み入れ、レースが行われていました。また、1907年(明治40年)には、馬に軽快車を引かせ、馭者が乗って競う「繋駕速歩競走(けいがそくほきょうそう、けいがはやあしきょうそう)」が県内で初めて行われました。
毎年春秋二回、三日間ずつ開かれた競馬は優良馬の育成が目的の生産地競馬として発展し、当時、東北一の規模として名を上げました。
1932年(昭和7年)には、付近の耕地整理の関係から、黄金競馬場を毛無森(現在の緑ヶ丘一丁目)に移転し、競馬の開催を続けてきましたが、戦争の激化に伴い、軍用馬の鍛錬競走に切り替えられ、盛岡競馬は実質的に中止となります。
終戦後の1946年(昭和21年)10月に、盛岡振興競馬倶楽部が進駐軍慰安競馬を開催しました。また、翌11月に地方競馬法が公布されたことに伴い、1947年(昭和22年)から、県馬匹組合連合会が盛岡競馬を正式に再開しました。
その後、現在の県競馬組合が盛岡競馬の開催を受け継ぎ、1996年(平成8年)には、競馬の舞台を新庄八木田の新競馬場「OROパーク」に移し、今日まで開催を続けています。
旧黄金競馬場は、多目的広場「こがねパーク高松」と名前を変え、今もなお人々に親しまれています。
(参考:「いわての競馬史」)